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前漢と莽新の地方官は、制度も担当者もおなじ

紙屋正和「王莽期の地方行政」『福岡大学人文論叢』38-4
『漢書』と『後漢書』のあいだの時代を、
ふたつの正史のあいだを行き来して、解きあかす論文。
結論:王莽は、地方行政にはノータッチ!

はしがき

王莽は前2年に長安に呼び戻された。
平帝の朝廷で、中央官制、南北郊祀制、天子七廟制ほかを改革。

王莽の平帝のときの政策がくわしい。知りたくなったら、この論文を読み返せばよい。ざっと見通せる。


前漢の地方行政改革は、おなじ紙屋氏の論文がある。
「前漢郡県統治制度の展開について-その基礎的考察-」
「前漢時代の郡・国の守・相の支配権の強化について」
「武帝の財政増収政策と郡・国・県」
「前漢後半期における中央政界と郡・国」
前漢初期は、太守と国相は、地方支配に関与しない。
武帝の中期に、権限を強化して、前漢の後半につよくなった。

前漢から後漢への変化は、おなじ紙屋氏の論文がある。
「前漢時代における県の長吏の任用形態の変遷について」
「漢時代における長吏の任用形態の編成について・再論」
「後漢時代における地方行政と三公制度」

後漢は、前漢をひきついだという認識。王莽の影響はゼロという前提。

論文をおさめた雑誌の名前を、ぼくははぶきました。なぜか。シロウトの趣味サイトだからです。でもまあ、だいたい『福岡大学人文論叢』でカバーできるなあ、というのも省略した理由のひとつ。


この論文の結論は、
王莽が地方行政に対し、ほんとうに影響がゼロだということ。
王莽は、地方長官の名前を変えただけで、内容に手をつけず。

1 王莽の地方行政改革

元始四年、12州の名をかえた。大規模な変更で「吏は記す能はず」
後9年-21年、王莽は改革をかさねる。

『漢書』王莽伝にもとづく、まとめが論文にあり。いま、はぶく。

州もしくは監察の改革がおおい。
だが、ダブって置かれた監察官どうしが、どんな関係だか不明。
監察官ばかり、何重にもおいて、有効に機能したのか疑問。

王莽は、劉氏の諸侯王を庶民におとした。国なし。郡のみ125。
だが、公爵=州牧、侯・伯爵=郡の長官とし、世襲を認めた。
郡県制の名のもとに、封建制をつくったようだ。
『後漢書』李憲伝で、地方官が異動したが、この異動は例外。
地位を子につがせたという史料もないが。

王莽の時代が、短すぎたからです。


県の数が、前漢から莽新で1.4倍になる。封地が小分けされたか。
前漢の列侯はすべて県侯だが、後漢は、こまかい郷侯と亭侯がある。
後漢で列侯がふえたのは、王莽をひきついだ可能性がある。

2 王莽の地方行政改革の限界

州郡県の、長官クラスの官名をかえただけ。
つかさどる仕事や権限がかわったという、史料はない。
新しい官名は『漢書』『後漢書』のほか、敦煌漢簡にある。
王莽がつくった長官の官名が、辺境の敦煌にも、とどいていた証明。
だが次官以降は、漢代とおなじ。民政する丞、兵馬する長史。

鄧曄が任じた弘農「掾」の王憲とは、王莽の地方官だ。
馬援は、扶風郡の「督郵」となった。
『後漢書』崔インに、郡文学、門下掾、掾史がいたことが記される。
郡の属吏は、前漢とかわらない職名だ
『後漢書』景丹伝には、侯相がある。居延旧簡に「尉」がある。

前漢で郡国は、外朝(とくに丞相)に経理報告した。莽新もおなじ。
『後漢書』崔イン伝はいう。裁判は県がやり、解決しないと郡へ。

崔インの祖父・崔テンは、莽新の政治記述の宝庫のようだ。見たい。

州郡は、課税の方針をしめすだけで、徴税の実務は県がやる。
州の地位は高いが、マンパワーがない。行政を掌握できない。

地方行政は、前漢から莽新で、変化なし。
前漢の行政官は、莽新でも、おなじ地位についていた。
公孫述、郭キュウ、錫光など。印綬を交換されただけ。

紙屋論文の注釈はいう。居延漢簡で、莽新にも二十等爵があったことが確認できる。王莽の年号と連ねて書かれた木簡。


地方行政のノータッチだった理由は、3つ。
 1.王莽は都会人だ。地方を知らない。
 2.王莽は、群雄を平定してない。中央の改革=政権安定。
 3.王莽の政権が15年で倒れ、手が回らず。

王莽は、制度さえ整えれば、うまくゆくと考えた。
前漢をうばった経緯から、王莽はすべて自分で決裁したい。
県宰が、数年も空位だったことがある。機能マヒだ。

『後漢書』任延伝が紹介されている。例外的に、異民族統治に成功した地方もあったようです。交趾太守の錫光など。

王莽は前漢の制度と同じなのに、地方行政がとどこおった。
地方官に給与が未払いだから、収賄が起きた。
ただし後漢は、幼帝のときも、前漢とおなじ制度で、地方を維持した。
郡県制そのものや、地方農村の環境が、マヒの原因ではない。

制度がおなじ。担当者がおなじ。これで、結果が変わるのは、不自然。
だとしたら、莽新の地方行政がコケた理由は、2つ考えられる。
ひとつは、王莽が地方行政を、よほどひどく、あり得ないくらいに、ジャマした。ふたつには、歴史家が筆を曲げただけ。それほど地方行政は混乱しなかったのに、莽新をケナすために、ボロクソに書いた。
ぼくは、ふたつめだと思う。


3 後漢の郡県制復活

『漢書』王莽伝下はいう。
地皇四年(23年)三月朔に、更始帝がたつ。更始元年とする。
『後漢書』光武帝紀はいう。
更始元年(23年)二月に、更始帝がたつ。
王莽は殷正の暦で、更始帝は夏正の暦だ。
地皇四年2月がおわった翌日を、更始元年2月とした。
更始帝の勢力には、2月が2回あった。

25年6月、光武帝は即位した。夏正を採用した。更始帝の年号をひきついだのですね。
おもしろいから、書き写してしまったが、本題と関係ない。

更始帝も光武帝も、前漢の官名にもどした。

郡国制の復活について。更始帝は、異姓ふくみ19王を立てた。
光武帝は、建武元年7月、宗室の劉茂を中山王に封じたのが初め。
建武七年(31年)8月まで前漢王侯の子弟、自分の一族を封じた。
だが建武十三年から、諸侯王を廃止。公に降格した。
後漢から、諸侯王がひとりもいなくなった。
建武十七年(41年)10月、皇子を諸侯王とした。郡国制の復活。

光武帝と司馬炎の共通点。
王朝をつくる過程で、自分より上の世代で分岐した一族を、おおく王に封じた。協力をえるため。だが、自分の王朝がかたまると、おおくの王をリセット。つぎは、自分より下の世代の一族を、王に封じていく。光武帝は、39年4月にリセット。41年10月に子を王に封じ始めた。


むすび

莽新から後漢にひきつがれたのは、2つだ。
 1.天鳳元年、郡を3つに分けた。内郡、近郡、辺郡。
 2.前漢は県侯だけだが、ほかに郷侯と亭侯をくわえた。

ぼくの感想

王莽は地方行政に、ノータッチだった。
筆者の紙屋氏は、王莽の「行き届かなさ」を暴いたつもりだろう。

しかし上に書いたように、ぼくは歴史書の曲筆を感じとる。
制度も担当者も同じままで、ただ長官の名を変えただけで、
どうしてそこまで混乱するものか。

数十万人の企業の内側を知っています。社長が変わった。マスコミは騒いだ。トップが発信するメッセージは、ガラッと変わった。だが、下部組織?である、ぼくの職場の身の回りは、それほど変わらない。
昨日までの仕事のやり方は、トップが変わっただけで、カンタンに変わらない。良くも悪くも。官制(慣性)の法則! 莽新も、おなじではないか。

もちろん組織で、トップが発信する方針の影響は大きい。
でもそれを云うなら、前漢の平帝のときから、王莽が執政者だ。
平帝のとき地方は保たれて、莽新では弊害だらけ、とも云えまい。

王莽は、前漢を「簒奪」したのでなく「禅譲」を受けたのだ。
紙屋氏は論文で「うばった」という表現を用いていたが、
それは『漢書』がくだした価値判断だ。正確でない。
禅譲された王莽が、前漢の制度をスライドして、なにが不足なのか。
不行き届きでない。また、
紙屋氏は、王莽の地方行政の失敗を、個人の性質に帰着させた。

王莽はずっと長安にいたから、地方の実態を知らない。王莽は、制度を整備すれば治まると考えた(政治家として不充分だなあ)云々。

これは前近代の史家の手法であって、ぼくは物足りない。

王莽が滅びた主因は、自然災害だろう。
黄河の流れが1000年に1度なのに変わるとか、奇跡である。
(これを指して、王莽には徳がない!ということかも知れないが)
地方行政について、王莽に罪はない。と思う。100828

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