表紙 > 漢文和訳 > 『後漢書』袁術が殺した、弩兵が巧みな皇族の列伝

後漢皇帝の近親が、袁術に殺される

袁術が皇帝を称するとき、後漢の皇族、陳王の劉寵をころした。
ご本人・劉寵さんには悪いが、ネタとして面白い!
というわけで、その人の列伝をやります。

列伝のご紹介

卷五十 孝明八王列傳第四十
『後漢書』50巻。2代皇帝・明帝の子、8人の王の家。

明帝は、57年から75年まで在位。参考までに。


孝明皇帝九子:
賈貴人生章帝;陰貴人生梁節王暢;余七王本書不載母氏。

後漢の明帝には、9人の子がいた。
賈貴人は、3代章帝を産んだ。陰貴人は、梁節王の劉暢を産んだ。
のこりの7人の王は、母の名前がわからない。

千乗王の劉建

千乘哀王建,永平三年封。明年薨。年少無子,國除。
千乘哀王の劉建は、永平三年(60年)に封じられた。
翌61年、劉建は薨じた。劉建は若く、子がなかった。
千乗国は除かれた。

子孫断絶。今回は、用がありませんでした。


初代の陳王、劉羨(今回の主役、陳王の祖)

陳敬王羨,永平三年封廣平王。建初三年,有司奏遣羨與巨鹿王恭、樂成王党俱就國。肅宗性篤愛,不忍與諸王乖離,遂皆留京師。明年,案輿地圖,令諸國戶口皆等,租入歲各八千萬。
明帝の子(章帝の弟)である、
陳敬王の劉羨は、永平三年(60年)に、廣平王に封じられた。
建初三年(78年)有司が、章帝に提案した。
「劉羨と、巨鹿王の劉恭と、樂成王の劉党を、いずれも洛陽から任国に行かせなさい」と。
しかし章帝の性格は篤愛だから、弟たちを洛陽から出せなかった。王たちは、洛陽に残った。
翌79年、地図を作らせ、王たちの国の戸数を等しくさせた。歳入は、どの弟の国も八千萬とした。

羨博涉經書,有威嚴,與諸儒講論于白虎殿。七年,帝以廣平在北,多有邊費,乃徙羨為西平王,分汝南八縣為國。及帝崩,遺詔徙封為陳王,食淮陽郡,其年就國。立三十七年薨,子思王鈞嗣。
劉羨は、経書に詳しく、威嚴があった。劉羨は、儒者たちと、白虎殿で議論した。

後漢の国是が決まったとされる、儒教学会です。

82年、もとの広平郡は、北方にあるせいで防衛費がかさむので、汝南郡の8県をもらい、西平王になった。
88年に章帝が崩じ、劉寵は、陳王となった。淮陽郡を分割した。その歳のうちに、陳国にいった。
王位にあること37年、西暦96年に死んだ。

劉羨は、今回の主人公・劉寵が、理想的な祖先だと敬う人だろう。

子の劉鈞が、陳王をついだ。

2代陳王の劉鈞、無法者

鈞立,多不法,遂行天子大射禮。性隱賊,喜文法,國相二千石不與相得者,輒陰中之。憎怨敬王夫人李儀等,永元十一年,遂使客隗久殺儀家屬。吏捕得久,系長平獄。鈞欲斷絕辭語,複使結客篡殺久。事發覺,有司舉奏,鈞坐削西華、項、新陽三縣。十二年,封鈞六弟為列侯。後鈞取掖庭出女李嬈為小妻,複坐削圉、宜祿、扶溝三縣。永初七年,封敬王孫安國為耕亭侯。
鈞立二十一年薨,子懷王竦嗣。立二年薨,無子,國絕。

劉鈞が陳王になった。劉鈞は法を守らず、皇帝にしか許されない弓術の儀式をやった。

性格の悪い皇族がやることは、いつも同じだ。後漢末の劉表も、きっとこの劉鈞と同じような「悪ふざけ」をした。

劉鈞の性格は隱賊で、法律を好み、気に食わない国相や太守を陥れた。 西暦99年、李夫人を憎んだから、劉鈞は夫人の家族を殺させた。劉鈞の悪事が発覚し、3件を削られた。
100年、劉鈞は、後宮の女性(皇帝のつま)を娶った。この罪により、また3県を削られた。

ろくでもない。『後漢書』を記した范曄は、劉鈞をけなす必要がない。つまり劉鈞は、ほんとうに、無法者だったのでしょうね。

陳王であること21年、劉鈞は死んだ。

劉鈞の死は、116年である。
ちなみに、曹騰がつかえた安帝の在位は、106年から125年まで。

子の劉竦がついだ。
劉竦は、陳王であること2年で、死んだ。子なく、断絶。

叔父がバトンを渡す、陳王の劉崇&劉崇

永甯元年,立敬王子安壽亭侯崇為陳王,是為頃王。立五年薨,子孝王承嗣。
120年。初代の陳王である劉羨の子、劉崇を陳王にした。
陳王であること5年、劉崇は死んだ。子の劉承がついだ。

何もしていない人。血筋をつなぐだけの老人?
しかも名前まで「承」すなわち「つぐ」だ。漫画みたいだ。


袁術に殺された陳王、劉寵

承薨,子湣王寵嗣。熹平二年,國相師遷追奏前相魏愔與寵共祭天神,希幸非冀,罪至不道。有司奏遣使者案驗。是時,新誅勃海王悝,靈帝不忍複加法,詔檻車傳送愔、遷詣北寺詔獄,使中常侍王酺與尚書令、侍御史雜考。愔辭與王共祭黃老君,求長生福而已。無他冀幸。酺等奏愔職在匡正,而所為不端,遷誣靠其王,罔以不道,皆誅死。有詔赦寵不案。

劉承が死んだ。子の劉寵がついだ。(主役ですよ!)
173年、陳国相の師遷が、劉寵を訴えた。
「劉寵は、願ってはいけないこと(皇帝になりたい)を願っている。処罰してください」と。
霊帝は、劉寵を殺したくない。前年172年に、渤海王の劉悝を殺したばかりだからだ。
宦官が、劉寵を調べた。
「劉寵は、黄老君を祭って、長寿を祈っていただけです」
劉寵は、霊帝に許された。

『後漢書』は明らかに、劉寵は皇帝になることを願った、と書いている。宦官が霊帝の気持ちに迎合して、劉寵の野心をもみ消したけれども。
これだけ野心があれば、袁術は殺しがいがある!


寵善弩射,十發十中,中皆同處。中平中,黃巾賊起,郡縣皆棄城走,寵有強弩數千張,出軍都亭。國人素聞王善射,不敢反叛,故陳獨得完,百姓歸之者眾十余萬人。

劉寵は、弩の射撃がうまかった。弩を10発うって、みな同じところにあたった。
中平年間、黄巾賊が起った。郡県は、みな城を捨てて逃げた。だが劉寵は、強弩を数千もって、出陣した。

面白くなってきました。袁術のライバルに相応しい!

陳国の人は、ふだんから劉寵が弩の名人だと、聞いていた。黄巾賊は、劉寵のまもる陳国では、叛乱しなかった。陳国だけが、無傷だった。10余万人が、陳国に避難してきた。

こんな国があったとは。「南方に逃げたいが、長江を渡る勇気はない」という人に、ぴったりの避難先である。


及獻帝初,義兵起,寵率眾屯陽夏,自稱輔漢大將軍。國相會稽駱俊素有感恩,時天下饑荒,鄰郡人多歸就之,俊傾賑贍,並得全活。後袁術求糧于陳而俊拒絕之,術忿恚,遣客詐殺俊及寵,陳由是破敗。

献帝のはじめ、董卓を倒すため、義兵が起った。劉寵は、兵をあつめて陽夏に駐屯した。みずから輔漢大將軍を名乗った。

皇帝になるための儀式をした人だ。こんな僭称は、軽いものである。

さて、
陳国の相は、会稽出身の駱俊である。

謝承『後漢書』がいう。駱俊は、あざなを孝遠。孝廉にあげられ、尚書侍郎。陳国の相。
子供の生まれた家には、米肉を与えた。子供は、駱俊の「駱」を、名前につけた。

駱俊は、ふだんから威恩がある人物だった。天下が饑荒して、隣の郡の人が、多く陳国に逃げてくると、財産を傾けて食べさせた。避難した人は、みな生き残ることができた。
のちに袁術が、陳国に、兵糧を求めた。

袁術さんは、兵站の管理がうまくないからね。笑

駱俊は、袁術を断った。袁術は、駱俊に怒った。袁術は、食客を送り込んで、駱俊と劉寵を、騙し殺した。

謝承『後漢書』がいう。袁術は、部曲将の張闓陽に命じ、陳国で食糧を集めさせた。駱俊は、張闓陽と酒を飲んだ。張闓陽は、駱俊を殺した。
駱俊は1郡の役人に過ぎない。だが陳国の人は、父母を失ったかのごとく、駱俊のために泣いた。

陳国は、袁術によって、破敗させられた。

是時,諸國無複租祿,而數見虜奪,並日而食,轉死溝壑者甚眾,夫人姬妾多為丹陵兵烏桓所略雲。

このとき諸国で、俸禄が払われなかった。しばしば、何も食べれない日があった。みぞに転がり落ち、死ぬ人がとても多かった。陳国の夫人や姬妾は、丹陽兵や烏桓に、略取されたという。

ほかの6王の国は、後漢に目ぼしい動きをしないので、省略します。


列伝のまとめ

論曰:明帝封諸子,租歲不過二千萬,馬後為言而不得也。賢哉!豈徒儉約而已乎!知驕貴之無CA75,嗜欲之難極也,故東京諸侯鮮有至於禍敗者也。

明帝が王子を封じたとき、歳入は2000万を下回らせた。馬皇后が増やせといっても、増やさなかった。賢明である。後漢の諸侯は、みな節約したから、禍いを受ける人が少なかったのだ。

もし租税が多ければ、2代陳王の劉鈞、6代陳王の劉寵のような人は、叛乱したに違いない。叛乱して、殺されたに違いない。
『後漢書』の論が言っているのは、これかな。


群雄のごとく自立し、弩隊をひきいる皇族。皇帝の位への野心。潤沢な食糧と人口。そして、袁術に目を付けられる。いいキャラを見つけました。重曹より膨らみそうだ。100502

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