表紙 > 考察 > 構造主義からの思いつき:190年代の群雄の「構造」

群雄の抗争は、2かける2で説明可能?

前回、構造主義にヒントを得て、「190年代の構造」を考えました。
下の図の説明は、こちらのページにあります。


この絵がどこまで通じるのか、『資治通鑑』を横目に検証。
「なにをやってるか、分からない」
と思われることは、承知してます。自分用メモのままで、すみません。
そのうち、読める日本語にして、説明します。まだ構想中なのです。

190年代の河北


もっとも士大夫として「標準的」なのは、現状をみとめること。とくに王朝や皇帝をどうにかしてやろうと思わない官吏は〔聖漢・献帝〕となる。劉虞や韓馥がここに当てはまる。董卓についていろいろ思うところがあるが、董卓をくつがえすほどでない。
袁紹は、董卓を攻める同盟の筆頭。漢室を守るために挙兵し、董卓の廃立を認めない。〔聖漢・空位〕である。袁紹は空位のイスに、劉虞を迎えたい。だが劉虞は〔聖漢・献帝〕だから、みずから皇帝にならない。
『資治通鑑』で韓馥は、袁紹を後方から牽制する。もし韓馥が兵糧をストップしたら、袁紹は飢える。韓馥は〔聖漢・献帝〕だから、董卓による廃立を追認している。必ずしも袁紹に賛成して、バックアップしてるのではない。
韓馥と袁紹はタテの関係となり、どちらが冀州のトップになるか、抗争が始まる。ただしヨコではないので、殺しあうほどの抗争にならない。袁紹と韓馥は、両立不可能ではない。結果、韓馥が袁紹にシタテに出ることで、冀州の問題は解決。
劉虞と袁紹もタテの関係。袁紹は劉虞に断られたら「皇帝がムリなら、録尚書事で。録尚書事もムリですか、残念だなあ」と引き下がるしかない。劉虞がウエだから、袁紹はゴリ押しできない。

さて公孫瓚。
公孫瓚は、趙岐を受けいれているから、献帝を支持している。しかし漢室護持には、あまり積極的でない。だから〔革命・献帝〕に置きました。〔革命〕という戦略は、辺境に発生しやすい。劉焉しかり。この点、江東における魯粛の天下二分か三分の計も〔革命〕なのだが、劉焉や公孫瓚の同類ということができると思う。
公孫瓚は、劉虞とヨコである。上下関係の秩序を争うのでは飽きず、殺し合いにまで発展した。劉虞も、根本方針がちがうから「公孫瓚ひとりを殺せ。兵士を傷つけるな」という君子の戦さで、公孫瓚を攻めている。
袁紹と公孫瓚はナナメである。地理的にちかいから戦うが、趙岐になだめられて、勝ち負けのよく分からない停戦をしている。
まだ、袁紹と公孫瓚が正面から滅ぼしあうだけの土壌は、ととのっていないと思う。このあたり、要検討。
異民族については、ひとまとめにできないので、後日。

曹操が献帝を奉戴したころ、公孫瓚は〔革命・空位〕に移動すると思う。董卓や李傕政権がまもる献帝には、やんわり従ったようだが、曹操に従ったように見えない
袁紹と公孫瓚はヨコの関係となり、死闘を演じましたとさ。

近日、ちゃんと史料にもどってくる予定です。
すこし気長に、放置していただけると幸いです。笑 100909

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