表紙 > 読書録 > 小野紀明『古典を読む』より、ガダマーの解釈学的循環

どうせ陳寿の意図は分からないから、どうするか

小野紀明『ヒューマニティーズ 古典を読む』岩波書店2010
を読みました。
ガダマーとハイデガーを理解する助けになるので、抜粋。
もちろん、陳寿や裴松之を読むとき、役立つ話です。

はじめに:学問的に読む

研究者は、現在の人間として、
過去のテキストと、学問的に対峙する。
著者が想定した読み手や、時代状況を反映して読む。

ぎゃくに「学問的」でないとは、自分の問題関心に引きつけること。
読み方は自分勝手でよく、著者の意図を無視してよい。
勝手に読んでも、示唆を与えてくれるから、古典は読みつがれた。

著者は例をあげる。18世紀にルソーが政治のために書いた『エミール』を読んで、恋人と別れる決心がついた学生がいた。


学問的に読んでも、過去を誤解する。避けられない。
 ・文脈を把握するための、重要な要素をわすれる
 ・著者の真意を、完全に理解していない
 ・著者がしかけたワナに、みごとに嵌った
これらは、原理的な問題ではない。克服できる。

著者は、わざと誤解された例をあげる。ジョン・ロックの読み方。ロックは、熱心なキリスト教信者だった。ロックの本には「神」が頻出する。だが、宗教を無視した世俗的なイデオロギーの人とか、キリスト教のない国では、わざと「神」を削除して読んだ。

ただし、異なる文化・言語・時代の文章を理解するとき、
原理的に不可能なことがある。
この不可能とは、ガダマーが指摘した、解釈学的循環である。

解釈学的循環の問題、人付き合いのテキスト解釈

19世紀のデュルタイは、自然科学バンザイに反発して、
解釈学(ヘルメノイティーク)を体系づけた。
解釈学は、もともと、聖書を解釈するやり方だった。
聖書に書かれた、神の意思(一般的で普遍的)を解釈し、
人間が直面した状況(個別的で具体的)に適用するための手法。
聖書だけでなく、ローマ法を読むときにも、解釈学をつかった。

ガーダマー『真理と方法』2部2章1節より。
解釈者は、テキストの外部から、すべてを見渡すことができない。
アルキメデスの点は、存在しない。

アルキメデスはいう。地球の外に、梃子の支点をおき、めちゃめちゃ長い棒を用意してくれたら、私は地球を持ち上げることができるだろう。

自らの偏見をまぬがれ、中立的にテキストを読むことはできない。
解釈者は、時代や場所に「拘束」されているから。

「拘束」の例。
源氏物語の冒頭で「女御と更衣がおおい」とあるのは、
天皇の権力が大きかったことを意味する。
紫式部が想定した読者には、天皇の強さの表現は、自明のことだ。
だが現代人は、新潮社の注釈によらねば、気づかない。
言葉の意味が分からないと、時代背景が分からない。
だが同時に、時代背景が分からないと、言葉の意味が分からない。

循環して、なにも分からない。がーん!

3つの循環があがってる。
ひとつ、単語と文章。単語の意味は、全体から決まる。全体の意味は、単語の意味を分かっていないと決まらない。
ふたつ、過去のテキストと現在の読者。過去のテキストは、現在の読者の視点からしか、見れない。だが現在の視点は、過去のテキストをどのように「歪めて」読んだかでしか、決まらない。過去のテキストが、そもそもどんな意味だったのか分からないと、どう「歪んだ」のか分からない。
みっつ、過去の著者と現在の読者。テキストを読んでいるとき、読者は、そのテキストを読む前と比べて、変化する。読者は著者によって変化させられるが、著者は変化した読者からしか、眺めることができない。読者は著者がいないと決まらないが、著者は読者がいないと決まらない。ぐるぐる!


「拘束」を打開するため、ガダマーは対策をのべる。
解釈者はバイアスを受けいれ、テキストと「対話」すべきだ。
強引でもいいから、自分なりに解釈すればよいのだ。
どうせ、強引な解釈しか、できないのだから。

開き直りである。とは、口が裂けても言ってはいけない。笑

著者を自分なりに理解するとは、
他者とコミュニケートすることとおなじ。

ぼくは思う。日常生活で「他者を客観的に理解」しないと、人付き合いできないわけじゃない。っていうかムリ。「どうせあの人の真意は不明だが」と留保したうえで、いちおう理解に努めている。リアクションがあるから、修正が利くのが、テキストとのちがいだが。
「ふだんどおり、人付き合いするように、テキストを読め」
著者の小野氏のガーダマー理解をぼくなりの言い換えると、こうなります。


他者認識の問題:存在と存在物は、循環してしまう

ガーダマーの師は、ハイデガーだ。
ハイデガーは、テキスト読解のための解釈学を、
コミュニケーションをめぐる、人間学に発展させた。

ぼくは直感的に賛成できないが、ともかく小野氏は、こう捉える。

ハイデガーの人間学でも、解釈学とおなじ循環がある。

ひとつ、単語と文章とのからみ。相手のつかった言葉の意味は、相手が前提とした文脈を知らないと、ただしく理解できない。だが文脈を知るには、言葉の意味を理解していなければならない。
ふたつ、過去のテキストと現在の読者とのからみ。相手の発言の意図を知るには、相手の人となりを知る必要がある。だが人となりを知るには、あらかじめ意図を知っている必要がある。所詮、自分ができる範囲で、意図と人となりを理解したつもりになるだけだ。

この循環に、ハイデガーは「存在論」で意味をつけた。

みっつ、過去の著者と現在の読者とのからみ。
ハイデガーは、存在と存在物を区別した。存在とは、全体として、とにかくモノがあるという概念。存在物とは、部分として、存在している個別のモノのこと。
存在という概念がないと、そもそも存在物は、そこに存在することができない。ぎゃくに存在物がないと、存在という概念が、そもそも成立しない。
人間は、全体として「存在」という概念そのものを見たいと思っても、ムリ。部分の「存在物」を見ることしかできない。循環する。
「著者がいないと読者が固まらず、読者がいないと著者は現れることができない」という循環は、存在と存在論とおなじ図式となる。

ハイデガーは、ナチズムに加担したことを反省し、
循環を受け入れ、中途半端な「両義性」にとどまった。

ハイデガーとナチズムの関係は、いろんな説がありそう。少なくとも小野氏は、ナチズムを反省したと「解釈」したらしい。笑
以下、あまり分からんが、ほぼまる写ししておきます。後日のため!
「これは○であり、かつ、○でない」というのが両義性。
○は存在物をさす。存在する「これ」の全体は、部分(ある存在の姿)としてのみ現れる。結果、全体は隠れてしまう。
だから、存在である全体としての存在物は、部分である○であり、かつ○でない。そう言明するしかなくなる。
ぼくの補足。
あるものの「全体」を、すべて言い当てることはできない。「部分=○」でしか語れない。だから、言い漏れた部分を「○でない」と言っておき、「全体を言えたわけじゃないよ」と留保しておく。言い訳しておく。


ハイデガーが存在論で循環に立ち向かったのに対し、
ガダマーは「地平の融合」をさせよという。

「どうせ他者は分からない」と、逃げこむのではない。「みんな違って、みんないい」と、ゆるゆるに認めるのでもない。このあたり、ヘーゲルとデュルタイが、否定の相手になっているようです。吟味の準備がないので、スルーします。
「地平の融合」の中身については、小野氏のこの本よりも、渡邊二郎『構造と解釈』ちくま学芸文庫のほうが、くわしくて、よく分かりました。
ザツに要約すれば、自分なりの理解で体当たりすれば、それでいいじゃん、という話。小野氏の結論も、こっちだ。


読後の感想

80ページで1300円は高いなあ。でも、
解釈学的循環について、くわしく考えられたのは、よい経験でした。
ハイデガーの読み方につき、一説を提示してくれたのもうれしい。
解釈学は、三国志を読むときも、とても参考になると思ってます。

例えば「陳寿の立場からすると」と論じるとき、思い出したい。

もうちょっと、解釈学について読みたい。
巻末の読書ガイドが、とても役に立ちそうですよ。100926

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