表紙 > 読書録 > 『古代文化』499「特集:中国の皇帝たち」より皇帝のレッテルを反省する

2代目や3代目の皇帝は、脚色されやすい

上谷浩一氏の論文を探していて、見つけました。
『古代文化』52(8) (通号 499) [2000.8] 古代学協会編
特輯 中国の皇帝たち 漢から唐へ


おもしろかったので、抜き書きます。
谷川道雄氏の「総論」によれば、皇帝個人が、政治的環境との関わりの中で、いかなる自己実現しようとしたか、突き詰めて考えた特集だそうです。マクロな国家組織の話で終わるでなく、ミクロな個人レベルの話に終わるでない。
国家と個人との関わりを、明らかにする特集。

ぼくの言葉で言い換えると、歴史書のステレオタイプを剥がすという行為でした。ぼくが想定するステレオタイプとは、たとえば孫呉をえがく、陳寿の「呉志」。
低い身分から出世した孫堅、神がかった武勇で建国した孫策、腰をすえて安定をはかった孫権、つよい臣下に掣肘された孫亮や孫休、暴虐をつくすラストの孫晧。王朝の盛衰を、いかにも典型的に再現しました、というお話です。
これと同じ「いかにも」な操作が、ほかの歴史書にも行われている。水戸黄門が毎週、おなじ時間に印籠を出すように、歴史書も、いつも同じパタンをふむ。これを辞めてみましょう、という特集でした。

水戸黄門は、かならず同じ時間に入浴シーンがあり、同じ時間に印籠を出すらしい。自分で検証したわけじゃない。都市伝説? だが比喩としては、うまい話だと思う。


佐藤達郎「前漢の文帝-その虚像と実像-」

『漢書』は前漢の文帝を、黄老思想をもちい、民力を休養させた温厚な名君とする。文帝の政治は、つぎの景帝とまとめられ、「文景の治」という。ほんわかした理想の時代とされる。
だが、じつは違う。
つぎの武帝のきびしさを強調するため、捻じ曲げられたイメージだ。文帝は、そんなに「いい人」ではない。
文帝は、劉邦以来の功臣を、徐々に除いた。呉楚七国の乱のきっかけは、文帝にある。『王制』を編集して儒教を研究した。法家の臣をもちい、酷吏の登場をまねいた。
文帝は、黄老とまざりながら、儒家や法家も導入した。『漢書』が評すように、文帝と景帝がゆるく、対照的に、武帝だけが厳しいのではない。文帝、景帝、武帝と、一貫した流れがあった。

佐藤氏による、たねあかし。
『漢書』は、『史記』の記述を改竄した。
『史記』は、文帝が封禅を遠慮したから「仁だなあ」と書いた。
『漢書』は、文帝のとき刑罰が少ないから「仁だなあ」と書いた。
仁だというコメントは同じでも、評価した対象がちがう。班固は、文帝と景帝を「周の成王と康王は、刑罰が少なかった」という伝説に重ねて、『史記』にない話を作り出した。

世界史の授業でも、陥りやすい。「この皇帝は柔軟、この皇帝は強硬だよ」と、まとめたがる。しかし、人間という複雑で多面的な生き物や、時代の風潮が、二色に塗りわけられることは、ない。
ひとは理解を助けるため、単純化しがちだ。歴史の記述が、あまりに理解しやすければ、疑ってかかるとよい。かもね。
前漢についての知識が、ぼくは少ない。概説書レベルだ。ぼくは文帝を、武帝とは対極にいる、やさしい人だと思っていた。最低である。笑


上谷浩一「後漢の和帝の時代-永元四年の政変-」

和帝は、外戚に圧迫され、宦官に操られ、オロオロした人物とされる。

上谷氏はいう。『諡法』によれば「和」とは、剛でなく、柔でない。あいまいだ。27歳で夭折したから、キャラ立ちしなくて当然か?と。

だが和帝は、確かな意思で、親政した人だ。外戚・竇武をたおした政変は、和帝が東方の官僚をもちいて、起こしたものである。

後漢の外戚は、関隴・三輔の豪族たち。これに対抗し、南陽、潁川、汝南、淮水流域の官僚を、和帝はもちいた。袁安、任隗ら。

和帝は官僚を用いて、外戚につらなる地方豪族の利権をおさえた。

後漢の桓帝は、単超ら宦官に助けられ、外戚・梁冀をたおした。桓帝は、宦官だけに頼った。
上谷氏はいう。桓帝のイメージをさかのぼって、和帝に投影してはいけない。つまり和帝は、宦官の鄭衆だけに頼ったのではない。親政にもちいた、官僚がいたことを忘れてはいけない、と。


和帝のとき、後漢の領土は最大になった。アショーカ王やトラヤヌス帝のように、領土の大きさをもって、王朝の最盛期だと評価してもいいのではないか。
『後漢書』を書いた范曄は、光武帝と明帝が「苛切」だといい、章帝を「寛厚」だとし、和帝を「ゆるみ」と評価した。范曄の評価を、無批判に継承する必要はない。

上の前漢の文帝と同じ。ぼくは思う。おそらく范曄は、『漢書』をまねた。王朝が、創業から安定にむかうストーリーの典型を、意識したのだろう。今回の特集が、もっとも攻撃したいところである。


福原啓郎「三国魏の明帝-一奢靡の皇帝の実像-」

曹叡を批判する言葉は「奢靡」である。土木工事で、民力を使った。しかし、思慮なき浪費ではない。これが、福原氏の言いたいこと。

歴史書は、暴君を批判するとき、その仕事として「土木工事」「過度のゼイタク」を描く。でも、曹叡には曹叡なりの考えがあったのだよ、と。


洛陽の再建は、曹操のときからの継続事業だった。曹叡が思いついたのではない。諌めた楊阜たちも、工事そのものを否定しない。時期尚早を説くだけだ。

後漢末から検討された、肉刑の復活も、同じ種類の議論らしい。やることは全員一致で賛成するが、時期でモメている。

曹叡が土木工事をしたのは、呉蜀を圧倒するためだ。統一が完了していないからこそ、曹魏の「重威」を敵国に示すべきだ。また「増築の負担を、後世に残さない」という、思いやりでもある。前漢の蕭何が、発想したことだ。

曹叡は生前から「烈祖」という廟号を決めた。創業者以外は「○宗」とするのが、通例だ。曹叡は、創業を完成させる人物だと、自らを位置づけた。封禅を検討した。
曹叡は、はじめの遺言にて、皇族で要職を固めようとした。皇族を冷遇するという、曹丕の方針と異なる。曹丕に逆らってでも、曹氏の王朝を維持することに、心をくだいた。

こんな曹叡が、バカな浪費皇帝であるはずない、と福原氏は言いたいようです。曹叡については、三国志の人物ですから、ぼくは「浪費皇帝」という、ステレオタイプを鵜呑みにしてませんでした。
「○祖」という廟号を生前に定めたことを知らず、勉強になりました。


李済ソウ「東晋の元帝-貴族政治の中の皇帝-」

司馬睿は、江南の豪族のおかげで皇帝になれた。それなのに晩年、江南の豪族を討伐しようとした。司馬睿の軍隊は、江南から供給されたもの。討伐が成功するはずもなく、司馬睿の軍は自壊。司馬睿は、この敗戦が直接の原因となり、死んだ。
江南で皇帝になるって、難しいねー!という話。

著者の想定を勘ぐりますと。
世間の評価で、司馬睿は貴族に妥協した。しかしじつは、司馬睿は、君主権を強めるために、ムチャしたのですよと。
ぼくは、司馬睿の本紀を読んだことがある。司馬睿は、王敦と対決して敗れたと、知っていた。今回の論文に、意外性はなかったなあ。


西晋は江南を、無策のまま放置した。307年に司馬睿が赴任したとき、誰も相手にしなかった。
のちに華北が乱れた。司馬睿は、中原の人が、長江を渡るのを禁じた。江南の豪族が、中原の人士と衝突するのを回避した。この行いにより、江南で支持された。

司馬睿は、中原の人を「裏切った」から、江南で支持を得られた。なんとも矛盾した立場の人です。いい死に方をしないのが、予見できそう?


司馬睿は、王導や王敦を遠ざけた。法家の劉隗をもちい、宗室に出鎮させた。江南の豪族と、利害が衝突した。司馬睿は、負けてしまった。

張学鋒「東晋の哀帝-東晋中期の政治と社会-」

哀帝は、外戚のせいで権力を持てず、黄老の不老不死にハマッた。水銀を服用して、中毒死した。東晋の皇帝は、つらいねー!という話。

東晋では「中興正統」がくり返された。つまり、前皇統の正統性を否定して、新しい皇帝を立てる。哀帝は、前の穆帝を否定して即位した。哀帝の弟が廃されたあと、簡文帝に否定された。

哀帝が黄老にハマッたのは、琅邪王を経験したから。琅邪では、まさに道教の最重要経典『上清経』が編集された時期。哀帝は、地理的な影響を受けたに違いないと。

中国人研究者に、この特集の趣旨を伝えていなかったらしい。もしくは、べつの目的で書いた論文を、借りてきたか。「歴史書はこう描くが、じつはね」という話になっていない。ただ本紀を紹介するだけだ。
つぎの劉宋の文帝は、だいじょうぶです。笑


丹治昭司「劉宋の文帝-『元嘉の治』の一側面-」

劉宋の文帝は、社会を安定させた。「元嘉の治」という。貴族層にとって、理想的な時代だ。文帝の個人的な性格のおかげとされる。
しかし、そうでもない!

この特集のいつものパタン。創業者から、1代か2代あとに、歴史書はウソを仕込むらしい。実際以上に、やさしい(臣下に妥協した)世の中に描きがちだ。前漢の文帝、後漢の和帝、東晋の元帝、いまの劉宋の文帝。しかし全員、君主権力を集中させるため、ひそかに厳しい。

川勝義雄氏はいう。劉宋政権は、宗室と寒門武人が、軍事権を掌握した。元嘉時代は、貴族が栄光を回顧する時代だ。

文帝は貴族に掣肘を受けつつ、身近な「五臣」を、侍中にもちいた。機密をあずけ、ひざを交えて政策論争をした。また、寒門に中央軍の指揮を任せた。いずれも、文帝との個人的な信頼関係によった。
ゆえに、馴れ合いによる不正も起こった。文帝が北伐をいうと、へつらって賛成者が出まくった。

ぼくが文帝まで読んだのは、裴松之と范曄の時代だから。范曄は、ここに書かれたように、文帝と個人的に結びついた臣である。
特集はあとに、北周の武帝、唐の玄宗があるが、やりません。


おわりに:歴史の脚色は、おのれを出世させる道具

今回の特集と同じ話を、18歳のとき大学で聞いた。
日本史では、平安時代に「延喜・天暦の治」がある。何だかよく分からないが、素晴らしい世の中だったらしい。少なくとも、高校日本史では、このように習った。
なんとなれば、歴史を記した階層の人にとって、都合のいい時代だったそうだ。「あの聖代にもどせ」と叫ぶことで、いまの自分が出世できるから、素晴らしい世の中だと喧伝した。

創業者は、キャラが強すぎる。脚色しにくい。ぎゃくに王朝を滅ぼした人物は、引き合いに出せない。王朝が滅びた時代に、発話者が「当世」を例えれば、目の前にいる君主が怒るだろう。
というわけで、キャラの定まらない2代目や3代目が、都合のよい脚色の対象とされたかも。おそらく班固『漢書』が、先例となった。歴代の臣下たちは、過去にいた目立たない君主に「慎みぶかく、臣下を重用した」というフィクションを与えた。
歴史書は、臣下が「オレを出世させろ」と主張するための道具かも知れない。資本主義なんか導入されなくても、人は利のために、骨を折る。利が目的だったから、読むに値しない!などと、ケッペキなことは言いません。利のための生産物が、面白かったりする。100716

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