表紙 > 人物伝 > 『後漢書』何顒伝:何顒グループの母体は、袁氏と荀氏か

荀爽の死と、何顒の死は、からみが不審です

さいきん、少なくとも1日に1回は「何顒グループ」と口にする。
そのわりに、何顒伝を読んだことがない。読みます。
『後漢書』党錮列伝のさいごに、何顒伝があります。盲点?

あまりに短い。何顒伝だけでは、なんとも言えない。
かといって、何顒伝を無視する理由はない。これから、何顒グループについて、ぼくなりに考えたい。その土台づくりとして、何顒伝をやります。
直接の動機は、荀攸伝の『三国志集解』で引用が多かったから。

今回は考察に答えが出ませんが、何顒伝に、お目とおしください。

友人の父の仇をとり、一足飛びに名声をえる

何顒字伯求,南陽襄郷人也。少遊學洛陽。顒雖後進,而郭林宗、賈偉節等與之相好,顯名太學。

何顒は、あざなを伯求という。南陽の襄郷の人だ。

何進と何顒の関係が気になります。
おなじ何氏で、おなじ南陽出身です。県はちがいますが。
袁紹は何進につかえ、袁紹は何顒グループに属した。共通点がおおい。
ちなみに『後漢書』で立伝された、ほかの何氏には、南陽の人はナシ。2人をつなぐ史料を見つけたい。それが叶わないなら、2人の関係性を積極的に否定する史料を見つけたいなあ。

わかいとき何顒は、洛陽でまなんだ。
何顒は後進だった。しかし、郭林宗と賈偉節らは、何顒と親しくしてくれた。ゆえに太学で、何顒は名を知られた。

いみなで書けば、郭泰と賈彪です。ふたりとも『後漢書』に列伝がある。読まねばならん。
「後進」の意味が、よく分からない。日本語の辞書的な意味では「後輩」だが、ちがうだろう。名声の基盤がなくて、おくれを取っていたのかな。何顒に、有力な親族は、いなさそうだ。


友人虞偉高有父仇未報,而篤病將終,顒往候之,偉高泣而訴。顒感其義,為復仇,以頭DD3C其墓。

何顒には、虞偉高という友人がいた。

虞偉高は、いみなが分からない。どこかに、書いてありますか?

虞偉高は、父のカタキを取らぬまま、病気で死にかけた。何顒は、虞偉高と会った。虞偉高は泣いて、父のカタキを取れない無念をうったえた。何顒は、虞偉高の義に感じいった。虞偉高のために、カタキをとってあげた。虞偉高の墓前に、カタキの首をそなえた。

ムチャである。笑
ムチャをするほど、何顒が「義」に篤かったと云える。またうがって見れば、必然性のない義挙でもやらないと、何顒は名声が得られなかった。何顒が、アウトローの出身者だったと分かる。


宦官に追放され、袁紹とともに反体制運動をする

及陳蕃、李膺之敗,顒以與蕃、膺善,遂為宦官所陷,乃變姓名,亡匿汝南間。所至皆親其豪桀,有聲荊豫之域。袁紹慕之,私與往來,結為奔走之友。

陳蕃と李膺が、やぶれた。

168年だ。宦官に、外戚の竇武がやぶれた。

何顒は、陳蕃と李膺と、仲がよかった。だから何顒は、宦官に陥れられた。何顒は姓名をかえて、汝南と南郡のあたりに隠れた。

『東漢書刊誤』はいう。原文は「汝南の間」とあるが、これは「汝南と南郡の間」とすべきだ。汝南だけなら「間」という字がジャマである。列伝のすぐ下で、何顒は「荊州と豫州で名声があった」とある。汝南は豫州だ。荊州の南郡をくっつけるべきだ。
ぼくも、それでいいと思います。もともと汝南と南郡で、それを「汝+南」と省略したつもりが、「汝南」で地名として成立してしまったか。事故である。分かりやすさを期すなら『東漢書刊誤』にしたがうべき。

何顒は、汝南と南郡あたりの豪桀と、親しくした。何顒の声望は、荊州と豫州にいきわたった。

南郡や南陽と、汝南はちかい。文化的にも政治的にも、ついでに軍事的にも、同一のエリアと見なしてよいのでしょう。
でないと、何顒の名声が、この地域で広がらない。袁紹や袁術を考えるとき、忘れてはいけない視点です。ぼくには、土地勘がないので。笑

袁紹は、何顒の名声をしたって、プライベートに往来した。

「私」という字が気になる。四世三公の子として、公的に交際したのではない。あくまで個人的につきあったのですね。
党錮の時代、袁氏の家長は、必ずしも宦官と対立しない。一族から、袁赦という宦官を出してもいる。外戚も宦官も、適宜おともだち。こうした袁氏の方針に逆らうから、袁紹の行動は「私」なんだ。

袁紹は何顒とむすび、奔走の友となった。

『詩経』はいう。奔走=使臣。
その注釈はいう。「徳をさとし、誉をのぶるを、奔走という」・・・?


是時,黨事起,天下多離其難,顒常私入洛陽,從紹計議。其窮困閉厄者,為求援救,以濟其患。有被掩捕者,則廣設權計,使得逃隱,全免者甚眾。

党錮の禁があり、天下の人は、災難をうけた。いつも何顒は、こっそり洛陽にはいった。袁紹にくっついてゆき、計略をめぐらした。

中央へのパイプという意味では、袁紹が有利です。何顒は「後進」だ。ムチャなカタキ討ちを、みずからに課すほど、コネがない。
おそらく、青年官僚の袁紹は、アウトローな何顒の信者になったのでしょう。王朝は腐っているし、生家もいっしょになって腐っている。ピュアな袁紹は、これを嫌ったか。
袁紹が養子なったとされるのは、伯父の袁成だ。袁成は、後漢にありがちな、腐敗の代表者だ。梁冀と癒着した。横車をおした。

宦官に追い詰められた人を、何顒はたくさん救った。

何顒の運動には、袁紹のコネが、活用されたはずだ。「なにが正しいか」なんて問いは、答えが出ないから、突き詰めても仕方ない。でもとりあえず袁紹が、反体制の動きをしたのは確かだ。メカケの子。
袁術は何顒をきらい、権勢のド真ん中をあゆむ。もういちど云いますが、「なにが正しいか」を問うまい。でもとりあえず袁術が、後漢の体制にそった動きをしたのは、確かだろう。こちらが、四世三公の嫡子だ。


黄巾後に出世、董卓をこばみ、荀爽の死にからむ?

及黨錮解,顒辟司空府。每三府會議,莫不推顒之長。累遷。及董卓秉政,逼顒以為長史,托疾不就,乃與司空荀爽、司徒王允等共謀卓。

党錮が解除された。何顒は、司空府にめされた。

党錮の解除は、184年の黄巾の乱でいいのか?
184年の司空は、張温。185年8月から、190年10月まで楊賜。

三公の会議のたび、何顒は頭角をあらわした。しきりに昇進した。

何顒は、後漢で出世することに、けっこう貪欲だ。後漢を見限っていない。貪欲だからこそ何顒は、宦官と衝突した。洛陽に出入りした。出仕したら、手加減なく発言&活躍した。昇進を、断らなかった。

董卓が政治をとると、何顒を長史にした。何顒は、病気だといって、董卓に仕えなかった。

董卓が招きたくなるほど、何顒の地位はあがっていた。これに注意。

司空の荀爽と、司徒の王允が、董卓を殺そうとした。

會爽薨,顒以他事為卓所系,憂憤而卒。

たまたま荀爽が死んだ。何顒は、ほかのことで捕まり、董卓に繋がれた。憂憤して、何顒は死んだ。

『三国志集解』荀攸伝で、このあたりが複雑。荀爽に董卓をころす気持ちがあったか。史料によって、異なる。未遂の事件だけに、何とでも言える。また何とも言えない。
何顒が、なぜ繋がれたかも、分からない。何顒は、董卓を殺そうとしたのではない? 暗殺をたくらむ罪とか、分かりやすいのになあ。虞偉高のカタキをとる気概がある人だ。何顒の意図も、分からない。
荀爽の死が、何顒に直接かかわらないのに、何顒伝に書いてある。この書き方は不自然。范曄が「ここに宝埋めたので、見つけてくださいね」とメッセージを送っているっぽい。荀爽が、何顒を読みとくキーか?


曹操と荀彧に、コメントをプレゼント

初,顒見曹操,歎曰:「漢家將亡,安天下者必此人也。」操以是嘉之。嘗稱「潁川荀彧,王佐之器」。及彧為尚書令,遣人西迎叔父爽,並致顒屍,而葬之爽之塚傍。

はじめ何顒は、曹操に「漢が滅びたら、曹操が天下を安定させる」と云った。曹操は、何顒のコメントを喜んだ。
何顒は「潁川の荀彧は、王佐の器だ」と云った。

荀彧に、面と向かって云っていない。不在の荀彧についてわざわざコメントし、それを宣伝したのは、なぜか。何顒は、荀爽との関係を、好転させたかったのでしょう。
時代を理解するため、袁氏と荀氏の関係も、ぼくなりの妄想設定が必要だ。

荀彧が尚書令になった。荀彧は西(長安)から、叔父・荀爽の遺体と、何顒の遺体をはこんだ。荀彧は、荀爽と何顒を、となりに葬った。

196年、曹操が献帝を迎えたとき。時代が飛びます。
ものすごく「仄めかし」がある。袁氏と荀氏のナゾが気になるし、荀彧が袁紹から曹操にうつった理由も、からみそうだ。


おわりに:そのうち『後漢書』荀爽伝やります

「何顒グループ」とは言うものの、何顒には、グループの中心になれるほど、家柄や人脈や官位がない。名声も即席だ。
何顒グループという組織は、じつは袁氏や荀氏が、大株主かも。組織の方針は、董卓への対抗だろうか。

何顒はあくまで、グループの一員だ。曹操や荀彧へのコメントが有名になった。だから後世人が、何顒の名を、グループの名にかぶせただけ?

何顒を知るため、郭泰伝、賈彪伝、荀爽伝、あたりをやります。
何顒が死んだとき、二袁が何をしてたかも気になる。100905

荀爽の決起のとき、何顒は連動した。荀攸も手伝った。しかし肝心の袁紹が、逃げちゃった。荀彧は、これを根にもったとか。妄想は楽しい。笑

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