表紙 > 読書録 > 石井仁『魏の武帝 曹操』から袁術を抜粋

孫呉は袁術の後継政権

ぼくが袁術について妄想することを、
「袁症を起こしている」
と病気っぽく表現できないかなあと、思いました。
「蜀中毒」の響きにはおよばない。また考えましょう。

石井仁『魏の武帝 曹操』から、袁術にかんして抜粋。

袁術の江淮平定

194-195、袁術は江淮地方を征圧した。
袁紹派の丹楊太守の周昕、九江太守の周昂を駆逐。
あるいは 廬江太守の陸康を駆逐。
袁術の先兵は、孫賁、呉景(203没)孫策(175-200)

おなじころ李傕政権は、揚州刺史(のち牧)劉繇をおくる。
劉繇の生没年は、157頃-198頃。

劉繇の生年って、記述あったっけ?

呉郡の曲阿で劉繇は、江東の勢力と連係し、術に宣戦布告。
術は、琅邪の恵衢を揚州刺史に。長江をはさんで対峙。

195年12月ころ、袁術は戦局打開のため、折衝校尉の孫策を投入。
これが孫呉建国への第一歩
孫策は、劉繇を豫章郡に敗走させた。
孫策の将・朱治(156-224)は、呉郡太守の許貢を駆逐。
196年7月、孫策は会稽太守・王朗を破った。
会稽の戦いで、王朗を支援した周昕の一族は全滅した。

周昕、どうなったんだっけ? いかん、忘れている。


袁術が皇帝を名のる

劉繇に勝った袁術は、
謀臣である河内の張ケイのシナリオにしたがい、帝位僭称を画策。
『春秋讖』にある「当塗高」、袁氏は土徳の舜の子孫である。
黄巾とおなじく、讖緯思想と五行思想を利用。
197年1月、袁術は帝位。仲という王朝。

皇帝・袁術は、呂布と婚姻をむすぼうとする。
沛国相の陳珪は、徐州と揚州の同盟をおそれる。
呂布に、曹操との提携をうながす。
曹操は、197年夏に官位をくばった。
 ・呂布:平東将軍、徐州牧
 ・陳登:広陵太守
 ・孫策:明漢将軍、会稽太守、烏程侯
 ・陳瑀:安東将軍、呉郡太守(東海の海西に駐屯)
反袁術同盟を結成した。

筆のタッチが、董卓に敵対したときと同じ?


袁術は同盟を崩しに、将軍の張勲を徐州におくる。敗退。
197年7月、袁術は、陳国との連係をはかる。
黄巾の被害を、王の劉寵がふせいだ。10万が避難した。
董卓のとき、劉寵は輔漢大将軍を名のる。国相は駱俊。
袁術は、劉寵に断られた。
陳国の軍備が強力なので、袁術は劉寵と駱俊を暗殺。

まもなく、袁術の北上をきいた曹操が出陣。
あわてた袁術は、橋ズイ、李豊、梁綱、楽就にまかせる。

橋玄は、石井先生の本で記述がおおい。妄想したくなる。
石井先生は、大喬と小喬が、橋玄の娘である可能性を否定しない。橋玄は、曹操を頼れと言い残した。ところが、その橋玄の一門が、曹操でなく袁術を頼っていた。これは、どういうことだろう。笑

袁術は、四将軍にまかせて、淮南に逃げもどった
四将軍は討たれた。主力を失い、袁術は覇権争いから脱落。
199年、袁紹をたよる。6月、寿春で憤死。

孫策の江東六郡制圧

袁術の滅亡で、揚州の勢力地図がかわる。
豫章の南昌県に築城した劉繇は、198年ころ病死。

南昌県の城を「劉繇城」というらしい。観光地の名?

袁術と劉繇の二大勢力が消滅した。にわかに群雄割拠。

本命は、廬江太守の劉勲(琅邪の人)。袁術の集団を吸収。盟主に。
劉勲は、曹操の旧友でもある。

恵衢の劉勲も、琅邪の人。石井先生の意図はなくても、琅邪と袁術のつながりが強調される。袁術の部下と曹操との人脈も、気になる。曹操と袁術軍の人脈は、他にもあっただろう。


劉勲の対抗馬は、孫策。呉郡と会稽、丹楊北部を制圧。
袁術と断交してから、曹操に接近。太守就任を認めさせた
孫策は会稽太守に。呉景を丹楊太守に。
張勲や橋ズイは、孫策に心を寄せた。袁術も息子としてほしがる。
袁術の死後、劉勲を頼りたい袁胤と黄イ(袁術の女婿)にたいして、
張勲と、長史の楊弘は、孫策への合流を主張。

袁術の女婿に、黄氏がいるのは知らなかった。黄祖とは関係なかろうが、どこの人だろう。


ほかに豫章太守の華歆が、旧劉繇集団の名士になる。
ダークホースは、下邳の陳氏。陳瑀は江東割拠をねらう。
陳瑀は、孫策に奇襲されて壊滅
従子の陳登は、袁術と呂布に対策する切り札で、伏波将軍、広陵太守。
陳登は、みずからを伏波将軍の馬援になぞらえたか。

馬援のことは、官名から石井先生が連想しただけ。

劉備ですら、陳登の豪胆さに舌を巻いた。
だが陳登は、孫策と同時期に死去

199年末ころ、劉勲が豫章の土豪を討伐。
孫策は、廬江の皖県を攻略。西塞山で劉勲をやぶる。
劉勲は曹操をたより、征虜将軍、華郷侯。劉勲は、幕僚になる。

孫策は、袁術の家族と、技術者、軍楽隊、兵士3万をえる。
なかに橋公の娘(二橋)もふくまれた。橋公とは橋玄。
橋玄の晩年に10歳の息子がいた。公は、三公への敬称。
橋氏の三公は、橋玄のほかにないから、同一人物だろう。

これよりさき、旧劉繇集団も、太史慈をつうじて孫策に加わる。
袁術の子・袁耀、劉繇の子・劉基は、呉に仕官した。
袁術の娘は、孫権の側室になった。
孫策は、袁術、および劉繇の後継者の地位を手に入れた。

曹操の江淮進出

200年までに、孫策は江東六郡を制圧。
劉表の江夏太守・黄祖に大打撃。
199年6月に孫策は、張紘を許都におくり、討逆将軍・呉侯をえる。
張紘、孫権、弟の孫翊らは、曹操の司空府に辟召された。
曹彰と孫賁の娘、孫匡と曹操の弟の娘が結婚。
孫策が大司馬を称し、献帝をむかえにくる風聞があった。

袁術が滅亡したあと、曹操が許都から、揚州刺史に送った。
督軍御史中丞の厳象(文則、京兆の人、163-200)だ。
着任してまもなく、孫策の将・李術(汝南の人)に攻められて敗死。
孫策が、厳象を殺したのだろう。孫策は、揚州刺史になりたい。
揚州の江北=江淮を、曹操と孫策が取り合っている。

孫策は、200年4月に呉郡で殺された。
陸康、周昕、許貢を迫害したせいだ。
曹操は、孫権を討虜将軍、会稽太守にして恩を売る。
いっぽう厳象の後任に、劉馥をおくりこむ。土豪を懐柔した。
曹操は劉馥をつかい、江淮を得た。孫氏を江東に封じ込めた
曹操が、政治的に勝利したのだ。

今日は抜粋しただけ。また後日考察。100827

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