表紙 > 漢文和訳 > 「呂蒙伝」:『三国志集解』を横目に、自分で翻訳する

01) 豫州から逃れ、孫策に仕える

呂蒙のことを、よく知るために、目ぼしい『三国志集解』の註釈を抜書きしながら、翻訳します。
『集解』の全訳でないことは、ご容赦ください。学術研究者ではなく、ファンにとって興味深い事実は、漏らさずに書くつもりです。どうしても主観で取捨選択してしまいますが。

明らかにしたいのは、1つ。
呂蒙が魯粛に代わったのは、単なる「軍師」のバトンタッチではない。
劉備に対する政策の変更でもない。
孫権の君主権力が、やっと荊州に及んだ画期だ!
これを言うために、呂蒙伝を読もうと思います。
1~3ページ、荊州赴任より前の苦労話は、ぼくにとって事前準備です。孫権にとって呂蒙が、いかに使いやすい部将であるか。これを確認します。前半生も、話として面白いのが救いだ。

コンプレックスのかたまり

呂蒙字子明,汝南富陂人也.少南渡,依姊夫鄧當.當為孫策將,數討山越.蒙年十五六,竊隨當擊賊,當顧見大驚,呵叱不能禁止.
呂蒙は、あざなを子明という。汝南郡の富陂の人である。

『郡国志』によれば、汝南郡は、豫州の侯国。和帝のとき、汝陰郡から分割して、設置された。
以下、引用元を示さなければ、ぼくの注釈です。
汝南郡は、袁氏の本拠です。名士の産地で、陳蕃を産んだ。陳蕃は、周瑜の親類・周景に招かれた。つながった!
呂蒙は豫州だ。揚州の周瑜とも、徐州の魯粛とも、故郷が違う。

呂蒙は若くして、長江を南へ渡った。

呂蒙は178年生まれ。黄巾の乱のとき、7歳。董卓のとき、13歳。

呂蒙の姉の夫は、鄧當である。呂蒙は、鄧當を頼った。

ちくま訳の索引を見ても、鄧當はここのみ登場。

鄧當は、孫策の部将となった。鄧當は、しばしば山越を討った。
呂蒙が15歳か16歳のときだ。ひそかに呂蒙は、鄧當の戦場に付いていった。

趙一清がひく。烏程に、厳白虎という豪族がいた。厳白虎と呂蒙が戦った場所が、今も残っている。
呂蒙の年齢から数えると、192年か193年。袁術が、淮南に移ってきたのが、193年。孫策が袁術に従うのが、194年。
つまり孫策が呉景を頼り、徐州から揚州に入って初めて募兵したときから、鄧當が参加したことがわかる。最々古参だ。

鄧當は、呂蒙を顧みて、大いに驚いた。鄧當は、呂蒙に「付いてくるな」と叱った。呂蒙は、鄧當の言いつけを守らなかった。

歸以告蒙母,母恚欲罰之,蒙曰:「貧賤難可居,脫誤有功,富貴可致.且不探虎穴,安得虎子?」母哀而舍之.
鄧當は帰り、呂蒙の母に継げた。母は呂蒙を怒り、罰そうとした。呂蒙は言った。
「貧賤のままで、いたくない。何かの間違いで功績を立てれば、富貴になれる。虎穴を探さなければ、虎子は手に入らない」
呂蒙の母は悲しみ、呂蒙を許した。

『集解』はいう。甘寧伝に、呂蒙がふだんから至孝だったとある。


時當職吏以蒙年小輕之,曰:「彼豎子何能為?此欲以肉餧虎耳.」他日與蒙會,又蚩辱之.蒙大怒,引刀殺吏,出走,逃邑子鄭長家.出因校尉袁雄自首,承閒為言,策召見奇之,引置左右.
ときに鄧當の役人は、呂蒙がまだ少年だから、呂蒙を軽んじた。役人は言った。
「このガキに、何ができるか。肉を虎のエサにしたいのか」

トラの比喩に、縁がある人だ。もしくは、文章家のお遊びかなあ。だったら、割り引かねば。

他の日、役人は呂蒙とたまたま会った。役人は、呂蒙を侮って笑った。呂蒙は、大いに怒り、刀を抜いて、役人を殺した。

ひどいコンプレックスの持ち主である。これが後年のバネになるのだね。

呂蒙は走り、邑子鄭長の家に逃げた。
呂蒙は家を出て、校尉の袁雄に自首した。弁護をしてもらい、呂蒙は孫策に召された。孫策は呂蒙を、奇特だと思い、左右に抜擢した。

孫策も、若くて侮られる人だったから、共感したのかも。孫策は呂蒙より、3つ上である。成人したばかりだ。

孫氏が使いやすい、現場系の軍人

數歲,鄧當死,張昭薦蒙代當,拜別部司馬.權統事,料諸小將兵少而用薄者,欲并合之.蒙陰賒貰,為兵作絳衣行縢,及簡日,陳列赫然,兵人練習,權見之大悅,增其兵.
数年して、姉の夫・鄧當が死んだ。張昭は、鄧當の代わりに、呂蒙を推薦した。

『集解』がいう。張昭は、魯粛は知らないが、呂蒙を知っていた。だが、魯粛でなく、さきに呂蒙を大将にしたという話を聞かない。
ぼくが思うに、
張昭は、孫策に招かれ、孫権を励ました。張昭は、孫氏の忠臣だ。張昭から見ると、へんに独自の戦略をもつ周瑜や魯粛より、呂蒙を使いやすい。しかし出自が低いから、実務隊長としてしか、使いようがなかった。

呂蒙は、別部司馬となった。
孫権が、孫策を継いだ。孫権は、諸将兵を調べた。人数が少なく、役に立たない小隊を、再編&併合するためだ。
呂蒙は、ひそかに借金をした。呂蒙は兵士に、赤い装備を着せた。呂蒙の兵士は、赫然と整列し、訓練した。孫権は呂蒙隊を見て、大いに喜んだ。孫権は、呂蒙隊を増やした。

知恵で成り上がった人。ぎゃくに、知恵を使わなければ、埋没した人。


從討丹楊,所向有功,拜平北都尉,領廣德長. 從征黃祖,祖令都督陳就逆以水軍出戰.蒙勒前鋒,親梟就首,將士乘勝,進攻其城.祖聞就死,委城走,兵追禽之.權曰:「事之克,由陳就先獲也.」以蒙為橫野中郎將,賜錢千萬.
呂蒙は、孫権に従い、丹楊郡を討った。

趙一清がひく。呂蒙が築いた、呂城が丹陽県の東54里にある。

功績があり、呂蒙は平北都尉となり、廣德長を領した。

『集解』がいう。平北都尉は、孫呉が置き、定員1名。

呂蒙は、黄祖の討伐に従った。黄祖は、都督の陳就に命じて、水軍で孫権を迎撃した。

『集解』がいう。孫権伝の建安13年に、記載あり。

呂蒙は前鋒を率いて、みずから陳就の首を取った。呂蒙は兵士を率い、黄祖の城を攻めた。黄祖は、陳就が死んだと聞き、城を委ねて逃げた。孫権の兵は、黄祖を捕らえた。 孫権が言った。
「勝てたのは、さきに呂蒙が陳就を捕らえたからだ」
呂蒙は、橫野中郎將となり、錢千萬を賜った。

胡三省がいう。横野は、もとは将軍号だ。だが呂蒙は、将軍より低位だから、中郎将としたのだ。


次回、赤壁の戦いです。まだ奇抜な呂蒙像は出てこないなあ。

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