表紙 > 人物伝 > 『三国志集解』で夏侯惇を知る/4月25日の勉強会準備

やたらとミスが多い列伝

盧弼『三国志集解』で、夏侯惇について知識を補います。
夏侯惇は、10年4月25日に名古屋でやる、勉強会のネタです。
もしもご興味のございます方は、メールか掲示板にてご連絡ください。
詳細をお伝えします。hirosatoh0906@yahoo.co.jp

夏侯氏と曹氏の列伝が一緒であること

何焯がいう。『曹瞞伝』は、曹嵩が夏侯氏の子だという。ただし『曹瞞伝』は、敵国が書いたものだ。
趙一清がいう。陳寿は、夏侯氏と曹氏を1巻にまとめた。曹操は夏侯氏の血筋だ。そのくせ、曹操の娘と、夏侯楙(夏侯惇の子)が結婚してしまった。同族の結婚は「奸」であると、こっそり告発するため、陳寿は列伝をくっつけたのだ。

陳寿は晋臣だから、曹操を正面から批判できない。


べつの人いわく。夏侯楙は曹操の娘をめとった。夏侯淵の子・夏侯衡は、曹操の弟・海陽哀侯の娘をめとった。夏侯尚は、曹操の娘をめとった。夏侯氏と曹氏は、代々婚姻してきたのだろう。夏侯惇と夏侯淵には、国を開いた勲功がある。だから陳寿は、曹仁、曹洪、曹休、曹真らと、列伝を合わせたのだろう。
曹爽と夏侯玄は、司馬氏に殺された。司馬氏に、皇帝権力が移った。ゆえに陳寿は、曹氏と夏侯氏の列伝を合わせた。魏の皇族が衰退するのを、惜しむためだ。これは歴史家の常套手段だ。

劉咸キいわく。曹氏と夏侯氏は、婚姻していない。夏侯氏は、曹嵩の母ではない。ゆえに曹嵩は、夏侯氏ではない。陳矯の例から分かる。

陳矯は、母方の姓を名乗った。父方の姓は「劉」です。


…このあと、曹氏と夏侯氏が、他人であるという説が並びます。
こんな感じで、よく分かっておりません。笑

夏侯嬰とのつながり

梁章鉅いわく。夏侯嬰の曾孫は「孫公主」と呼ばれた。だから夏侯嬰の子孫は、「孫氏」と改姓したのではないか。

曹操の、準皇族が「孫氏」だったら、三国志が意味不明になったなあ。
姓が裏切り者くさいのは、魏延だけで充分なのだ。。

周寿昌いわく。夏侯嬰の子孫が、すべて孫氏になったとは限らない。『漢書』の功臣表を見ても、孫氏を名乗っていない、夏侯嬰の子孫がいる。夏侯氏のままだ。

盧弼が『晋書』の夏侯湛伝を見た。夏侯湛伝によると、孫氏を名乗ったのは、夏侯嬰の子孫ではない。孫氏になったのは、べつの夏侯氏だ。孫氏だというのは、間違いだ。
…これも、結論なし。

呂布との戦い

夏侯惇は奮武将軍の司馬として、白馬に屯した。これは、官渡の戦いの舞台と同じ場所である。
夏侯惇は折衝校尉になった。解説は『集解』の袁術伝にある。

飛ぶのが面倒だから省略。袁術は、孫策を折衝校尉にした。
袁術:孫策=曹操:夏侯惇 ?


夏侯惇が留守したのは、濮陽。濮陽は、武帝紀の東郡の注釈のなかで、すでに盧弼が解説した。
曹操の家は、ケン城にあった。兗州刺史の首都は、ここだ。三国の魏は、東郡の区分に移した。
夏侯惇は、呂布と会戦した。おそらく夏侯惇は、もともと濮陽を守っていた。夏侯惇は濮陽を出て、東へ、ケン城を救援にむかった。呂布と遭遇した。夏侯惇は撤退して、ケン城に入った。だから呂布は、夏侯惇が空き家にした濮陽に入れたのだ。

捕虜になったとき、夏侯惇は「大将軍」と呼ばれた。
銭大昭いわく。夏侯惇はこのとき、折衝校尉だ。大将軍ではない。大将軍になるのは、曹丕が魏王になった後である。どうして大将軍になると、予知できるか。余計な文字が、紛れ込んだのだ。

曹操軍の重鎮として

建武将軍は、魏が置いた。
夏侯惇は、太寿水に堤防をつくった。
銭大昭がいう。初平4年(193年)袁術は襄邑に逃げ、太寿に到った。夏侯惇が治水した場所である。
趙一清がいう。『両漢志』には、太寿が載っていない。きっと、寧陵と襄邑のあいだだろう。

曹操が大将軍になり、夏侯惇が後方を守ったとある。
趙一清がいう。曹操は大将軍でなく、司空だ。曹操は、夏侯惇が「親貴」なので、後方を任すことができた。他の人では、できない役目である。
銭儀吉がいう。このとき、大将軍だった人はいない。

官位の間違い、多いですね。夏侯惇伝、意外にボロいのか?


曹操が夏侯惇を同乗させたのは、呂布でなく、関羽を攻撃したときだ。

鬼の首を取ったように、諸学者が間違いを言い立てている。『集解』の注釈が、とても長い。でもさあ、ぼくでも気づくよ。笑
やはり夏侯惇伝は、精度が低いな。むしろこれが気になる。


夏侯惇は、前将軍になった。
『宋百官志』によれば、前後左右の将軍は、光武帝の建武7年に省かれた。魏が置きなおした。
だが趙一清が見ると、前後左右の将軍は、よく出てくる。きっと省かれていない。
例えば、袁術は後将軍に、公孫サンは前将軍に、樊稠は右将軍に、呂布は左将軍になった。前後左右の将軍は、後漢で存続しただろう。

裴注『魏書』で、夏侯惇は魏官をもとめた。
『魏氏春秋』で夏侯惇は、曹操に「位を正す」ように進めている。武帝紀の建安24年(219年)の注釈に見える。

夏侯楙のこと

夏侯楙は、清河公主をめとった。
清河公主は、曹操と劉夫人の子。后妃伝の卞皇后伝に引かれた『魏略』に見える。
胡三省がいう。清河公主は、丁儀の妻になるはずだった。曹丕が阻止した。
盧弼がみる。丁儀のことは、陳思王(曹植)伝に引かれた『魏略通鑑』にある。夏侯淵の子とある。だが夏侯惇の子のミスだろう。

夏侯氏に絡む、このミスの多さは、何なんだ?


魏延伝がひく『魏略』はいう。
「夏侯楙は、曹操の娘婿だ。臆病で、謀がない」と。これは敵国・蜀の記録だ。しかし夏侯楙に武略がなかったと、知ることができる。

勉強会テキストのたくらみ

夏侯惇伝は、短い!
勉強会がすぐに終わってしまうので、どうしようかと思った。夏侯淵伝も、ついでに読んでしまおうかとも思った。
でも、そうじゃない。陳寿と裴松之が、ほかの本紀や列伝に書いたことを、注釈として引っ張ってこればいいんだ。『集解』と同じ技法です。
こうすれば、夏侯惇が多面的に見えてきます。

サイト『寒泉』が壊れているのが、とても痛い。


ところで、夏侯惇伝はミスが多い。「大将軍」と2回も書き、関羽と呂布を間違えた。なぜだ。陳寿の元ネタ、王沈『魏書』が、夏侯惇に悪意を持って、手を抜いたのか? 笑

王沈は、司馬昭とベッタリの人間。

それにしては、夏侯淵伝には目立ったミスがない。夏侯惇伝だけに、何が起きたんだ? 元々はもっと別の記述があり、改竄されたから、品質が落ちたとか? 改竄によって抜け落ち、また書き加えられたのは、何か? 妄想の世界だ。
陳寿は正しく書いたが、移した人が間違えた可能性もある。うーん。分からない。答えが出ないことを証明できそうだが、気になる。100406

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