表紙 > 読書録 > 宮城谷『三国志』より、関羽と劉備の最期を考える

01)宮城谷版の3つの特長

09年9月15日に、宮城谷『三国志』の八巻が発刊されましたね。
ぼくは10月16日に京都に行こうと思っていたので、本屋で手に取らず、わざと取っておきました。京都の風景を「背景画」にして、読みたかったので。ぼくが『三国志』と出会ったのは京都でした。

それなりに正統な歴史小説の常(つね)ですが、
「次にどうなるんだろう」
とソワソワするタイプの物語ではありません。
「あれをどのように描くんだろう」
というタイプのドキドキです。だから、1ヶ月を待つことは、決して堪えられない重圧ではありませんでした。

宮城谷『三国志』の特長

宮城谷『三国志』の特長は、3つあるとぼくは思います。まだ完結していないのだから、評価をしてしまうのは早すぎるのだが。
 1)紀伝体が散らばせた史実を繋げた
 2)和帝から説き起こし、後漢が滅びた理由を示した
 3)劉備を、老子を使って説明した

1)については、宮城谷氏がどの小説でもなさっていることです。
ぼくらが正史に挑むとき、本紀と列伝を縦に読むしかない。だが、それだけでは気づかないような、人物と人物、事件と事件を、横糸を巡らせて繋いでくれます。新しい発見が生まれます。
「知名度の低い人物を掘り起こす」
という面白さも、同じ仕事の1つの成果だと思います。
専伝を持たない人は、捉えにくいのでマイナーキャラだと思い込まれる。だが各所から拾ってくると、すごく魅力的だったりする。どうやって史料をお読みになっているのか、とても知りたい。

2)については、八巻を読み終えた今、リアルタイムに感動しているわけではない。述べません。

3)が、今回のテーマです。宮城谷『三国志』は、劉備がすごい。
劉備に入る前に、曹操について。
ここ100年くらいの傾向なのかな。ぼくは魯迅の発言について詳しく知りませんが、、誰かが『三国志』をオリジナルに描こうとしたとき、
「曹操がいかに優れた人であるか」
に取り組む作家は、わりに多いと思う。専門書じゃなくても、優れた曹操に出会う機会は多い。
宮城谷氏の曹操は、八巻にきて、曹丕との対比で器量がさらに大きく見せられた。曹丕の失敗を待たなくても、曹操はすごかった。だが宮城谷氏がいかに曹操を英雄に描いても、インパクトは薄かった。曹操の再評価は、充分にやり尽くされた感があるので。
「通常よりも100倍も辛いカレー」
を発明したとして、どれだけの人が注目するかなあ。カレーが辛いのは、わりに当たり前なのです。しかし、
「辛いアンパン」
を売っていたら、旨いかどうかは別として、新しいわけです。べつに辛さの度合いが、それほどじゃなくても、注目はされる。そういうわけで、曹操のスゴサで読者を納得させるには、宮城谷氏ですら難しい時代になりました。かと言って、曹操を貶すのも、前の1000年でやり尽くされてるしなあ。

宮城谷版、劉備と関羽

曹操は「わりと普通」でしたが、宮城谷氏の劉備はすごい。さっそく劉備について書かれた部分を引用してみます。

癸巳の日、劉備は殂んだ。六十三歳であった。
かれは前漢の高祖・劉邦を模倣しつづけたといってよい。ただし敵視した曹操が項羽のように単純ではなかった。端的にいえば、劉備の一生には創意も工夫もなかった。ただし、それをつらぬいたことで、凡庸さをも突き破ったのである。が、曹操の有為に対して劉備の無為は、秘めた徳というべき玄徳に達したか、どうか。

引用するためにキーボードを叩くだけでも、自分が賢くなったように錯覚するから、すごい文章家です。
宮城谷氏みたいな人に反語で詰問されたら、大抵の人が謝ってしまうと思うのだが、、劉備は「玄徳」には到らなかったというのが、宮城谷氏の評価です。
この作者は、いつも歴史上の人物を裁きます。ほめるときは、きちんとほめる。でも落第させるときは、容赦がない。
劉備は死んで、宮城谷氏にNOと言われた。

劉備は、あざなが「玄徳」です。「玄徳」とは、上で引用したような意味で、『老子』の概念です。宮城谷氏は『老子』に限定せず、仏教の普及がまだだと断った上で、劉備を「高僧のような」と例えたりもする。
劉備は、持ち続けない。スパスパと捨てていく。領地も妻子も、捨てて逃げる。諸葛亮と合流するまでは、際限なく劉備は中原をウロウロした。この半生は、世に言われるように、劉備が、
「戦略を立てたられる参謀に恵まれなかった」
という欠陥を抱えていたからではない。これが宮城谷版の、特許とでもいうべき特徴。劉備は執着をしないキャラクターで、好んで転がった。だからこそ生き残ることができたんだと。

思いっきり省略しますが、劉備は益州に入り、

劉備は袁術とおなじように、みずから皇帝と称したのである。せっかくの履歴をなげうって袁術の陋(いや)しさまでおのれを貶めた

なんてことをした。これと対比されるのは、関羽の死です。

関羽は孤立無援となって死んだ。それはたしかであるが、じつはそれは関羽の志ではなく、劉備の志の体現ではなかったのか。

劉備は諸葛亮と会ってから、荊州と益州を領有し、漢中王となった。これは、執着しない美学に反する。
劉備の志は、「もっと超絶したもの」であったはずだ。関羽は、不正な孫権と戦って自爆することで、劉備の志を天下に示した。すなわち「劉備への敬愛の表現であった」のだそうで。
あ、もちろん「自爆」なんて俗な表現を、宮城谷氏は使ってません。ぼくなりに分かりやすく言い換えると、そうなるだけです。

関羽は、劉備が「実現することがむずかしい志を捨てた」ことを残念に思った。だから、益州と連絡すら取らなくなり、独断専行して攻め上ったのだと。諸葛亮との連携がなくて当然だ。
ただし「腹が立ったから連絡を遣さない」という説明だけでは、関羽の精神年齢は、高校生のカップルである。だから宮城谷氏は、関羽の人格をいろいろ説明してくれるわけですが。

次回、宮城谷氏の提示した劉備と、関羽の最期について、思うところを書いてみます。

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